「うぅ…」
その日は珍しく、大地が一人呻いていた。
「どうした、大地?どこか具合でも悪いのか?」
部室の机に突っ伏したまま、呻いている姿を見れば誰でも気になってしまう。
こちらの声に気付いた大地は、また珍しく酷く落ち込んだ表情をこちらへ向けた。
こちらの姿を見るやいなや、「律ぅ…」とまた情けない声で大地が発する。
今日は随分と珍しい光景ばかり見ているな。
「どうした?やはりどこか具合が…」
「具合は悪くないよ。一応医者の卵だし、その辺は大丈夫」
「そうか。なら一体…?」
「ちょっと聞いてくれないか?」
机に両ひじをつき、組んだ手を顎を乗せたまま、盛大なため息を零す。
具合が悪くないのなら、一体何があったというのだろう。
「今日雨だろ」
「そうだな。梅雨に入ったと朝テレビで言っていた」
「そう梅雨…俺の一番苦手な季節なんだ」
「なぜだ?確かに雨が降っていると何かと不便ではあるが・・・」
「不便もなにも、支障ばかりだよ」
そう言ってまた大地が溜息を零す。
確かに雨が降っていると外出するにも手間がかかり、不便ではある。
特に弦楽器は湿気は大敵だから、この時期はメンテナンスも気が抜けない。
だが、こんなにまで落ち込むほどのものだろうか…?まだよくわからない
「何がそんなに困るんだ?」
「あぁそうか…律は平気そうだもんな」
「…何がだ?」
言葉の意味が分からず首を傾げていると、また大きなため息が聞こえてくる。
「俺の髪、癖っ毛だろ?」
「そうだな」
「これでも色々セットしたりしているんだけど、雨の日はそれがままならない。
それが嫌なんだっ!」
「…え?髪?」
大地から聞こえた意外な答えに、思わず目を丸くしてしまう。
「そう髪!雨の日はいくらセットしてもうまくいかなくてさ…。すごい落ち込むんだ」
「…今まで呻いていたのは、髪型のせいでなのか?」
「そうだよ。これでも気にしてるんだ。別にこの癖っ毛は嫌いじゃないんだけど、こういうときはホント困る。今日はうまくセットできたかな~と思うと、すぐに乱れちゃうしさ」
余程嫌なのか、くしゃりと自分の髪をかきながらまた大地が溜息をついた。
身なりを気にするのは良いことだと思う。傍で見ていても、きちんと整っている方が気持ちがいい。
しかし、大地が気にするほど普段と髪型が違うのかと聞かれると、こちらからわからない。
だが当人からすると、とても大きな問題であることは良く理解できた。
「そんなに気にする必要はないんじゃないか?俺には違いがわからない」
「えぇ…そうかな。でもなんか、格好がつかないというか」
「そうだろうか?」
自身の髪を掻き毟る大地の手を止めさせ、そっと下ろさせる。
こんなことをしていたら、本当に乱れてしまいそうだ。
代わりにその髪へそっと手を伸ばし、少し乱れてしまった髪を優しく手櫛をかけた。
ふわりとカーブした髪が、するりと指の合間から逃げていく。
「どんな髪型であっても、大地が大地であることには変わりない」
「…そうだけどさ」
「それに、俺はこの髪が好きだよ。ふわふわと柔らかくて、どこか暖かい。おまえらしい髪だ、大地」
「律…」
確かに癖づいているが、決して指に絡まることはない。
きちんと手入れがされているせいか、こうして触れていて心地が良い。
彼の嫌う癖は、寧ろふわふわとした柔らかく感じられて、とても大地らしくて思えた。
そうして撫でているうちにもっと触れたくなって、その髪をそっと腕の中へ抱き寄せた。
髪に頬を寄せると、その柔らかな感触が少しくすぐったく感じられた。
「え、ちょっ…律?」
「俺はこの髪が好きだよ…だから、あまり嫌わないでやってくれないか?」
「…律がそう言うなら」
そう言って聞こえてきたため息は、先ほどとは違い安堵を含んだものだった。
そのまま大地の腕がするりと背中へ回り、甘えるように身体を寄せてきたので、あやす様にまた髪を撫でた。
髪型ひとつでここまで取り乱してしまうなんて、少しだけ大地が可愛いと思えた。
どんな髪型であっても、大地が大地であることには変わりはない。
大地が大地であるなら、それだけで十分。
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